養老孟司(1986)『形を読む-生物の形態をめぐって』培風館
養老孟司(1986)『形を読む-生物の形態をめぐって』培風館を読んだ。
情報の伝達という面から、自然科学で起こる最大の課題は、じつは情報の受け手が、馬鹿だったらどうするか、というものである。相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、伝達不能になる。これを、とりあえず「馬鹿の壁」と表現しよう。
例えば、そうした相手が、科学の結論を信じこんだとき、科学が宗教と同じ機能をはたす、という現象を生じる。だから、科学と宗教は、ときどき仲が悪い。
結論が導かれる過程を理解せず、一方その結論のみを信ずるという意味で、宗教の結論も、科学の結論も、御託宣にほかならない。科学と宗教は、中身がちがう、と説いてもムダである。ほとんどの人間は、科学者でも宗教家でもない。またそのどちらか一方であれば、他方ではないのが普通である。だから、両者の中身の区別などは、当事者、つまり科学者と宗教家にとってすら、ふつうほとんど、無関係かつ無意味である。
丘浅次郎(1904)『進化論講話』開成館
丘浅次郎(1904)『進化論講話』開成館を読んだ。
人間には筋肉の発達に種々の相違がある通りに、知力の発達にも数等の段階があって、万人決して一様ではない。角力取りが軽そうに差し上げる石を、われわれが容易に持ち得ぬ如く、またわれわれの用いる鉄亜鈴を幼児がなかか動かし得ぬ如く、物の理屈を解する力もその通りで、各人のその有する知力相応な事柄でなければ了解することはできぬ。それゆえ理学上の学説の如きはいかに真理であっても、中以下の知力を備えた人間にはとうてい力に適せぬゆえ、説いても無益である。
大山剛(2011)『バーゼルⅢの衝撃 日本金融生き残りの道』東洋経済新報社
大山剛(2011)『バーゼルⅢの衝撃 日本金融生き残りの道』東洋経済新報社を読まなかった。
何かを和訳したような分かりづらい日本語のうえ、事実と私見が混在していて読むに堪えなかった。