横尾宣政(2019)『野村證券第2事業法人部』講談社

 横尾宣政(2019)『野村證券第2事業法人部』講談社をサラッと読んだ。前半はノスタル爺さんが懐古する野村證券株式会社勤務時代の「武勇伝」,後半は意識高い系壮年が弁解する対オリンパス事件へのインテグリティとかノブレス・オブリージュとかとなっている。高低差ありすぎて耳キーンなる!証券業版『それでもボクはやってない』の様相を呈しているが,前半部分があまりにも黒いため,「著者は拘置所に事件関連資料を取り寄せて徹底的に読み解き,検索が構築し裁判所が追認したデタラメなシナリオを完全論破,事件の真相を独力で明らかにした」と言われても,「えーっと,お,おう…。」という反応になってしまう。また,ところどころ絶許*1メモの切れ端を,墓場まで持って行かず,本書に紛れ込ませちゃうところも見どころの1つとなっている。

 主な登場人物は,プロフィールが紹介されているだけで次のとおり。

田淵節也(たぶち・せつや) 1923年岡山県生まれ。京大を卒業して47年に野村に入社し,事業法人部の立ち上げや国際部門の育成に尽力。78年に54歳の若さで第6代社長に就任した。85年に社長の座を田淵義久に譲った後も実力会長として君臨,リサーチ機関の野村総合研究所と野村コンピュータシステムの統合を実現するなど,野村を世界有数の証券会社に押し上げた。90年には証券業界初の経団連副会長に就任するも,損失補填問題や暴力団への融資の責任を取って91年に辞任し,経団連副会長も解任された。95年に田淵義久とともに再び取締役に返り咲くが,97年の総会屋への利益供与事件を契機にすべての役職から退いた。08年6月に84歳で死去。

豊田善一(とよだ・ぜんいち) 1924年三重県生まれ。明治大を卒業して野村に入社し,田淵節也とともに事業法人部を立ち上げるなど,戦後の野村の基礎を築いた。81年の八千代證券,光亜証券,野村証券投資信託販売の3社合併による国際証券の誕生にも尽力した。証券業界では「営業の神様」として有名で,田淵節也の後継社長の最有力候補だったが,大蔵省の反対を受けて筆頭副社長から国際証券に転じ,社長、相談役を歴任した。国際証券を退いた後はこうべ証券(現・インヴァスト証券)会長も務め,2004年11月に80歳で死去。

田淵義久(たぶち・よしひさ) 1932年岡山県生まれ。56年に早大を卒業して野村に入社し,主に個人営業畑を歩いて77年に取締役に昇格。中期国債ファンド(通称「中国ファンド」)の創設に尽力し,常務,専務を経て85年12月に第7代社長に就任した。同時に会長に就任した田淵節也とは,同姓で出身県も同じだが縁戚関係はない。会長の田淵を大タブチ,社長の田淵を小タブチと称した。91年6月に発覚した大口顧客に対する損失補填問題や暴力団に対する融資の責任を取って同月中に辞任したが,直後の株主総会で「損失補填はすべて大蔵省(現・財務省)に届け,その処理についても承認されていた」と真相を暴露して物議を醸した。95年に再び取締役に就任して復権を果たすも,97年の総会屋に対する利益供与事件を契機にすべての役職から退いた。 

鈴木政志(すずき・まさし) 1935年千葉県生まれ。58年に東大を卒業後,野村に入社し,主に事業法人畑を歩いたあと,第2事法部長から81年に取締役に昇格。常務,専務,副社長,副会長を経て,94年に会長に就任。96年7月から翌年3月までは日本証券業協会会長も務めた。97年の総会屋利益供与事件で,当時の酒巻英雄社長が辞任(のちに逮捕・起訴)すると,同年3月半ばから1ヵ月半の間は社長も兼務し,副社長5人を含む15人の取締役を退任させて「創業的出直し」を図った。98年5月に退任し,2005年5月に69歳で死去。

酒巻英雄(さかまき・ひでお) 1935年神奈川県生まれ。58年に法政大を卒業して野村に入社。主に資金・債券,総務畑を歩み,81年に取締役に昇格。常務,専務,副社長を経て,損失補填問題や暴力団融資の責任を取って辞任した田淵義久の後任として,91年6月に第8代社長に就任する。しかし97年5月には,総会屋小池隆一に対する利益供与事件の主犯として,商法違反などの疑いで東京地検特捜部に逮捕・起訴され,99年に懲役1年,執行猶予3年の有罪判決を受けた。損失補填騒動の中で棚ボタ式に社長に就任したため,人材豊富な野村の社内では酒巻に対するクーデター計画が水面下で存在していた。

岡莞爾(おか・かんじ) 1935年岡山県生まれ。60年に松山商大を卒業して野村に入社。法人営業畑を歩み,83年に取締役に昇格。常務を経て,88年10月に専務に就任したあと,同年12月に野村系列のベンチャーキャピタル,日本合同ファイナンス(現・JAFCO)副社長に転じる。アジア投資の第一人者として知られた。

岩﨑輝一郎(いわさき・きいちろう) 1937年東京都生まれ。61年に東大を卒業し,野村に入社。主に法人営業畑を歩み,85年に取締役(事業法人部担当)に昇格。常務,専務を経て93年副社長(大阪駐在)就任。97年から2000年までは監査役を務めた。退職直後,事法経験者を中心に野村グループOBで構成するコンサルティング会社「エグゼクティブ・パートナーズ」を設立して社長,会長を歴任。18年8月に81歳で死去した。

田窪忠司(たくぼ・ただし) 1937年広島県生まれ。62年に慶大を卒業して,野村に入社。主に引受と債券畑を歩き,航空機リース事業の子会社「野村バブコック・アンド・ブラウン」に出向したあと,87年12月に同社常務から野村常務に就任した。取締役を経ずに子会社役員からいきなり常務に就任するのは,野村では初のケースで,経済界の話題になった。専務を経て90年に副社長となり,97年に野村アセットマネジメント投信社長に就任。だが98年10月に解任され,その半年後に朝日ライフアセットマネジメント社長に就任して再び話題になった。

橘田喜和(きつだ・よしかず) 1939年大阪市生まれ。和歌山大を卒業後,62年に野村に入社し,主に個人営業畑を歩いた。85年に取締役(株式担当)に昇格すると,80年代後半のトリプルメリット相場やウォーターフロント相場を牽引した。常務,専務を経て90年に副社長に就任。田淵義久社長の後継候補の1人と目されたが,92年に野村ファイナンス副社長に転出し,95年に同社社長。97年からは債券の業者間売買を仲介する日本相互証券の社長を務めた。

橋本昌三(はしもと・しょうぞう) 1940年兵庫県生まれ。62年に慶大を卒業して野村に入社。主に個人営業畑や企画畑を歩み,85年に取締役に昇格。常務,専務を経て90年に副社長に就任し,次期社長候補の1人と目されたが,94年に野村総研社長に転じ,2002年から08年まで同社会長を務めた。

斉藤惇(さいとう・あつし) 1939年熊本県生まれ。63年に慶大を卒業して野村に入社。主に商品開発畑を歩き,ニューヨーク駐在も経験した。86年の取締役昇格後は資金債券本部を担当し,常務,専務を経て95年に副社長に昇進。99年に住友ライフ。インベストメント社長(2002年に会長)に転じると,03年に産業再生機構社長,07年に東京証券取引所グループ社長,13年に日本取引所グループ最高経営責任者(CEO)と要職を歴任した。15年に米投資ファンドコールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)日本法人会長に就任したあと,17年には日本野球機構第14代コミッショナーとなり,意外性のある人事が話題になった。

松木新平(まつき・しんぺい) 1944年兵庫県生まれ。63年に篠山鳳鳴高校を卒業し,野村に入社。証券取引所の「場立ち」(注・本社からの売買注文を立会場の媒介担当者に伝える社員)からキャリアを始め,CBやワラントなどエクイティ(株式)関連商品運用のスペシャリストとして知られた。90年にエクイティ担当取締役に昇格し,95年に常務。97年の総会屋利益供与事件に連座して東京地検特捜部に逮捕・起訴され,執行猶予付きの有罪判決を受けた。その後,2012年に詐欺容疑で立件されたAIJ投資顧問の取締役に就任していたことが話題となった。

清川昭(きよかわ・あきら) 1942年福岡県生まれ。64年に中央大を卒業して野村に入社。85年に取締役に昇格し,88年に常務(資金運用本部担当),93年に専務に昇進したあと,同年8月に野村信託銀行社長に就任。その後は99年に野村アセット・マネジメント投信(現・野村アセットマネジメント)社長を経て,2002年から消費者金融会社「武富士」の社長に就任した。

後藤博信(ごとう・ひろのぶ) 1946年山形県生まれ。70年に早大を卒業後,野村に入社し,主に法人営業や人事・企画畑を経験して89年に弱冠42歳で野村史上最年少(当時)の取締役に昇格。常務,専務を経て2000年に副社長となり,03年から08年まで野村総研副会長。09年から11年まで出身地の山形県飯豊町の副町長を務め,13年には再生可能エネルギー全般を手掛ける東北おひさま発電を同県長井市に創設した。

竹下賢一(たけした・けんいち) 1946年福岡県生まれ。71年に東大を卒業後,野村に入社し,82年から89年まで第2事業法人部課長。新宿野村ビル支店長を経て,91年に取締役に昇格したが,96年には野村不動産常務に転出した。

寺西功(てらにし・いさお) 1947年石川県生まれ。東京外語大を卒業後,71年に野村に入社。主に債券部や新商品開発部門を経て,90年に取締役に就任。95年に常務に就任し,97年には野村アセット・マネジメント投信(現・野村アセットマネジメント)専務に転じるが,98年1月の大蔵省接待汚職事件に連座し,贈賄の疑いで東京地検特捜部に逮捕,同年2月に同罪で略式起訴された。

小池雅治(こいけ・まさはる) 1947年新潟県生まれ。71年に上智大を卒業後,野村に入社して法人営業畑を歩き,91年に取締役,96年に常務(事業法人担当)に昇格するが,98年1月の大蔵省接待汚職事件に連座し,東京地検特捜部に贈賄罪で略式起訴されて退任。02年から09年まで野村インベスター・リレーションズの取締役社長兼CEOを務めた。

林純一(はやし・じゅんいち) 1950年生まれ。74年に東北大を卒業し,野村に入社。第2事法,公社債部を経て88年にパリバ証券(現・BNPパリバ証券)東京支店債券部長に転じた。別の外資系証券会社を経て2008年6月にはオリンパス社外取締役に就任するも,粉飾決算が発覚した11年末に辞任する。パリバ時代の93年から94年にかけ,金融商品の含み損隠蔽を目的とする特殊な外国債券(通称「パリバ債」)をオリンパスに約400億円販売し,それが同社のさらなる損失につながった。オリンパス粉飾決算事件の元凶の1人と目されたが,最後まで捜査当局の訴追を受けることはなかった。

北尾吉孝(きたよ・よしたか) 1951年兵庫県生まれ。74年に慶大を卒業し,野村に入社。87年に第2事業法人部次長,89年にワッサースタイン・ベレラ社常務(ロンドン駐在),92年に上場会社の未上場の子会社を担当する第3事業法人部長に就任した。95年にソフトバンクの株式公開を担当した縁で同社の孫正義社長(当時)にスカウトされ,同社常務に就任。99年にソフトバンク・インベストメント(現・SBIホールディングス)社長となった。

氏家純一(うじいえ・じゅんいち) 1945年東京都生まれ。75年に米シカゴ大大学院を修了して野村に入社。企画畑やノムラ・セキュリティーズ・インターナショナル(米国野村)社長を経験し,90年に取締役に昇格。常務を経て97年5月,第10代社長に就任した。2001年10月からは持株会社化に伴って野村ホールディングス社長になり,03年4月から11月6月まで同社会長を務めた。

稲野和利(いなの・かずとし) 1953年神奈川県生まれ。76年に東大を卒業して野村に入社し,主に法人営業畑を経験して97年に取締役(人事担当)に昇格。2000年に専務,03年に野村ホールディングス副社長,09年に野村アセットマネジメント会長を務め,11年4月には取締役会議長に就任した。さらに13年7月から4年間は野村出身者として3年ぶりに日本証券業協会会長を務め,現職は公益財団法人日本証券奨学財団理事長。

横尾宣政(よこお・のぶまさ) 1954(昭和29)年,兵庫県出身。78年に京都大学経済学部を卒業後,野村證券に入社。金沢支店を皮切りに,第2事業法人部,浜松支店次席,営業業務部運用企画課長,高崎支店長,新宿野村ビル支店長などを歴任。98(平成10)年5月,野村證券を退社・独立し,コンサルティング会社「グローバル・カンパニー・インコーポレーテッド」(GCI)を設立して,社長に就任。ベンチャー企業の発掘,指導,投資などに携わる。2011(平成23)年に発覚したオリンパス粉飾決算事件で粉飾の「指南役」とされ,翌12年2月には証券取引法金融商品取引法違反の共犯容疑で逮捕・起訴。詐欺,組織犯罪処罰法違反の容疑も加えられるが,当初から一貫して否認を続け,2年8ヵ月にわたって東京拘置所などに勾留された。保釈後も無罪を主張して争ったものの,19(平成31)年1月に上告を棄却され,実刑判決が確定して収監される。

下山敏郎(しもやま・としろう) 1924年新潟県生まれ。45年に陸軍航空士官学校を卒業して少尉に任官したが,終戦後に東大に入学し,49年に卒業してオリンパス光学工業に入社した。84年に社長,93年に会長,2001年に最高顧問となり,04年に退任。語学に堪能なインテリで,圧倒的なシェアを誇る医療用内視鏡装置に依存したオリンパスの経営体質を変えようと,バイオなどの異業種分野に積極的に投資したり,経営の主軸を一般消費財のカメラに移そうと試みたりした。12年2月に粉飾決算が事件化し,オリンパスから損害賠償請求を起こされたが,係争中の13年6月に89歳で死去した。

岸本正壽(きしもと・まさとし) 1935年鳥取県生まれ。58年に早大を卒業してオリンパス光学工業に入社。内視鏡など医療用光学機器の営業担当を経てドイツに赴任し,84年には米国現地法人の社長に就任するなど,約13年間にわたり欧米で勤務した。85年に本社取締役に昇格。87年に取締役経理部長,88年に常務,90年に専務に就任し,93年6月に下山敏郎の後任社長に就いた。デジタルカメラ事業の立ち上げに成功したあと,2001年には菊川剛に社長を譲って会長に就任。粉飾決算事件では,オリンパスから10億円の損害賠償請求訴訟を起こされた。

菊川剛(きくかわ・つよし) 1941年愛媛県生まれ。慶大卒業後,64年にオリンパス光学工業入社。米国の販売子会社オリンパス・カメラ・コーポレーションに出向し,83年に同社社長に。85年に本社に戻り,宣伝部長や広報宣伝部長などを経て93年に取締役に昇格。常務として米国子会社の社長・会長などを経験したあと,2001年6月にオリンパス本体の社長に就任。07年に藍綬褒章を受章した。12年2月に粉飾決算事件の主犯の1人として,証券取引法金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕・起訴され,懲役3年,執行猶予5年の有罪判決を受けた。

山田秀雄(やまだ・ひでお) 1944年長野県生まれ。同県内の高校を卒業し,63年にオリンパス光学工業に入社。会津オリンパスに出向したあと,80年10月に本社に戻り,経理部資金グループに配属される。89年1月に同グループリーダーに就任し,94年4月に経理部副部長,97年4月に総務・財務部長,2002年4月に財務部を統括するアドミニストレーション統括室長と昇進を続け,03年6月に取締役に昇格。取締役常務執行役員,取締役専務執行役員を経て,09年6月には新設の取締役副社長執行役員に上り詰めた。11年6月に監査役に就任するも,12年2月にはオリンパス粉飾決算事件の主犯の1人として,東京地検特捜部に証券取引法金融商品取引法違反の疑いで逮捕・起訴され,13年7月に懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を受けた。

森久志(もり・ひさし) 1957年富山県生まれ。81年に一橋大を卒業してオリンパス光学工業に入社。85年から米国のニューヨーク大学ビジネススクールに約1年間留学し,87年6月に経理部資金グループに配属された。大学で経営学商学を学び,オリンパスでは銀行や証券会社の担当者と対等に渡り合える数少ない社員で,88年には野村の転換社債部に研修生として数ヵ月間派遣された。復帰後はグループリーダーの山田を補佐して資金運用を担当し,97年4月に総務・財務部財務グループリーダー,2002年4月に総合経営企画室長に就任。03年6月に取締役執行役員に昇格し,09年6月に常務執行役員,11年4月には副社長執行役員と昇進。社長候補の筆頭とみられたが,12年2月に粉飾決算事件の主犯の1人として,証券取引法金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕・起訴され,懲役2年6ヵ月,執行猶予4年の有罪判決を受けた。

中塚真(なかつか・まこと) 1957年東京都生まれ。81年に中央大を卒業してオリンパス光学工業に入社し,85年12月まで経理部資金グループに在籍したあと,大町オリンパスに出向し,88年3月に経理部資金グループに復帰すると,2002年4月から06年3月まで財務部長,06年4月から08年5月まで経営企画本部財務戦略部の部長に就任。06年6月からはオリンパスの出資先の情報通信サービス会社ITXに常務として出向し,07年6月にオリンパス執行役員に昇格。その後はITX社長,オリンパス執行役員兼ITX会長,オリンパス常務執行役員を経て,11年6月にオリンパス取締役に昇格した。入社以来,山田,森とともに資金運用を担当し,損失の実態を最も把握していたとみられるが,刑事訴追の対象とはならなかった。

 

 単行本では表紙ウラに採用されていた下記の文章は,読者にドン引きされたのか,単行本では本文のみに格下げされている。

 とんでもない場面に出くわしたこともある。応接室の前を通りかかると,ノルマを果たせない課長代理を上司が怒鳴りつけているのが見えた。課長代理の横には奥方が座っていて,上司の怒りの矛先は彼女にも向けられた。

「こいつのために,みんなが迷惑しているんです。奥さん,どうにかしてください」

 何だか見てはいけないものを見てしまった気がした。

 

 顧客に損させてしまっている課題への解決方法として「損しても平気な人物を顧客にしよう」という発想が笑いすぎて草,これを「誠意」と呼ぶのは,草通り越して花,花咲き誇って夢。

 ・・・(前略)・・・。だが例えば1億円しか持っていない顧客に2億円損させると,その人はもう自殺するしかない。かといってノルマは必達だ。そうなると自分が顧客に示せる最大の誠意は,1億~2億円損しても平気な人物を選んで取引することだった。・・・(後略)・・・。

 

夢その果てに泡,泡弾けて弾,弾防ぐためにチョッキ。

 ・・・(前略)・・・。野村の他の支店では店頭にバキュームカーで突っ込まれたり,かなり後の話だが本社1階の本店営業部にピストルを乱射しながら飛び込んでくる輩がいたりと,予想だにしない事態が出来した。

 ・・・(中略)・・・。

 間もなく本社から「社章を外せ」と指示されたが,私は意地でも外さなかった。野村の役員はこの頃,公の場に出る際に防弾チョッキの着用を義務付けられた。副社長の鈴木政志さんにパーティーで会うと,「重いんだ,これ」とブツブツ言っていた。

 

 文庫版のあとがきに追加された絶許メモ。弁護士相手だとイニシャルトークになるマインドが切ない。

 約7年間戦い続けた中で,私が最大の敗因と考えるのは,11年秋の任意の事情聴取の段階から16年9月の公判2審の敗訴まで,東京第一法律事務所のT弁護人に弁護を依頼したことだ。・・・(後略)・・・。

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*1:「絶対に許さない」の略。「絶対に許さない」自体は,北海道日本ハムファイターズ金村曉が,2006年9月24日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム),4対1の3点リードで迎えた5回裏に2死満塁で交代を命じられて,シーズン成績が9勝6敗(5年連続2桁勝利に1勝不足)・投球回数134回2/3(6年連続規定投球回に1回1/3不足)に留まり,トレイ・ヒルマン監督に対して発言した「外国人の監督は個人の記録なんてどうでもいいんじゃない。絶対に許さない。」が有名。